通勤路の「無」を破る、奇妙な会話劇
世の中には、不可解なことって、結構転がってるもんなんですよね。別にUFO見たとか、座敷童が出たとか、そういう大層な話じゃないんです。もっと日常の、それでいて「え、なんで?」ってなるような、そんなどうでもいいけど妙に気になる現象。私、最近、通勤中にそれを見つけたんですよ。
みんな通勤って、基本、無の境地じゃないですか? 満員電車で押しつぶされながら、昨日のテレビのくだらないバラエティのこととか、今日のランチは何にしようかとか、あるいはもう何も考えたくないとか。そんな感じで、周囲の風景なんて、もはや背景色みたいなもんで、意識の外に追いやってる。それが平和で効率的な通勤術なんですよ。
なのに、いるんですよね、一人だけ、その「無」のルールをガン無視してる人が。毎朝、同じ時間、同じ場所で、見知らぬおじさんが、道端に立ってる「あの看板」にだけ、なぜか、話しかけてるんです。別に独り言をブツブツ言ってるわけじゃない。ちゃんと、看板と向き合って、語りかけてるんですよ。まるで、そこに誰かがいるかのように。
「アンソロポモルフィズム」という謎
この現象、なんなんですかね? 多分、この奇行に名前を付けるとしたら、「アンソロポモルフィズム」ってやつになるんじゃないかと、私は勝手に思ってます。
「アンソロポモルフィズム」っていうのは、簡単に言うと、動物や無生物、あるいは抽象的な概念なんかに、人間の特性や感情、あるいは行動なんかを当てはめて理解しようとする心理現象のこと、らしいですよ。要は、犬が「笑顔」に見えたり、天気予報の太陽が笑って見えたりするのも、これの一種。看板に話しかけるのも、まぁ、その極致みたいなもんでしょうね。私もたまにありますよ、パソコンがフリーズした時に「おい、しっかりしろよ」って話しかけたりとか。そういう話じゃなくて?いや、結構近いと思うんですけどね。
看板の向こうに見えるもの
で、その「アンソロポモルフィズム」を地で行くおじさんですよ。私、最初は「なんだかなぁ」って思って見てたんですけど、毎日毎日、同じ時間に同じ場所で繰り広げられるその儀式、いや、会話劇に、だんだん目が離せなくなってきたんです。
おじさんが話しかけてるのは、駅前の商店街の入り口にある、ちょっと色褪せた青い看板。「〇〇商店街」って書いてあるだけの、何の変哲もない、なんならちょっと古びた看板なんですけどね。おじさんは、その看板に向かって、毎朝こう言うんですよ。「今日も一日、よろしくな!」とか、「今日も無事に、頼むぞ!」とか。で、たまに「昨日も頑張ったな」みたいな、労いの言葉をかける日もある。
もうね、そこには、確固たる信頼関係が築かれてるわけですよ。いや、一方的な信頼関係ですけど。看板の方は、微動だにしないし、色も変わらない。でも、おじさんの口調は、まるで長年連れ添ったパートナーに話しかけるかのよう。ちょっと呆れて、でも、なんかこう、ほっこりする。その感情の振れ幅が、私の中の通勤の無を、少しだけ壊してくれるんですよね。
「今日は元気?」ガードレールに語りかける中村さんの秘密
私も最初は、「物好きだなぁ」くらいに思ってたんですけど、取材で会った中村さん(仮名:なかむらさん)の話を聞いて、ちょっとだけ、見方が変わりました。中村さんは、私が見かけるおじさんとは違うんですけど、似たような「無生物との対話」を実践してる方で。
中村さん、普段は都内で経理の仕事をしてる、ごく普通の40代の男性なんですけど、毎日、通勤中に特定のガードレールに話しかけてるらしいんですよ。ええ、ガードレールですよ。あの、道路脇にある、金属の、ただの棒。
「朝、家を出てすぐの交差点にあるガードレールなんですけど、あれ、なんか、ちょっとだけ傷ついてる部分があるんですよ。初めて見た時に、なんだか健気に見えちゃって」
中村さんは、そう言って、ちょっと照れくさそうに笑ってました。
「毎日そこを通るたびに、最初は心の中で『お疲れさん』って思ってたんです。でも、ある日、なんか無性に『お前も大変だよな、今日も無事でいろよ』って、声に出しちゃったんですよね。そしたら、なんか、妙にスッキリしたというか、自分も元気が出たというか」
そこから、中村さんのガードレールとの「会話」は始まったらしいんです。雨の日には「濡れて風邪ひかないようにしろよ」、晴れた日には「今日もいい天気だな!」、そして疲れてる日には「俺も疲れてるけど、お前も頑張ってるな」って。まるで、自分自身の感情を、ガードレールに投影してるみたいなんです。
「別に、ガードレールが返事してくれるわけじゃないのは、わかってるんですよ。でも、そうやって言葉にすることで、なんか、自分の気持ちが整理されるというか、日々のストレスが、ふっと軽くなる瞬間があるんですよね。誰にも言えないようなモヤモヤも、あのガードレールには、なぜか話せちゃうんです」
なるほど。そうか、看板に話しかけるおじさんも、ガードレールに話しかける中村さんも、もしかしたら、看板やガードレールに「返事」を求めているわけじゃないのかもしれない。彼らが求めているのは、日々の喧騒の中で、たった一人で、ほんの少しだけ、自分の内側にある感情を、外に出す「許し」みたいなものなのかもしれません。それに気づいた時、私は、毎日のおじさんの行動を、もう「奇妙な光景」とは呼べなくなっていましたね。あれは、彼にとっての、大切な「癒し」であり、私たちから見れば、ちょっと滑稽だけど、なんだか心が温かくなる「日常の詩」なんじゃないかと。
現代社会のささやかなサバイバル術
看板に話しかけるおじさんや、ガードレールと語り合う中村さん。彼らの行動って、一見すると「ちょっと変わってる人」で片付けられがちなんですけど、よくよく考えてみると、現代社会を生き抜くための、すごくまっとうな、むしろ賢いサバイバル術なんじゃないかって、最近思うんですよ。
だって考えてみてください。みんな、どこかしらで、何かと戦ってるじゃないですか。仕事のプレッシャー、人間関係のいざこざ、将来への漠然とした不安。そういうものを抱えながら、毎日満員電車に揺られ、定型文みたいな笑顔を作って、ヘトヘトになって家に帰る。で、どこでその感情を吐き出してるんですか、って話ですよ。
昔なら、立ち飲み屋で愚痴をこぼしたり、気の置けない仲間と夜通し語り明かしたり、みたいなアナログなガス抜きがあったんでしょうけど、今はもう、みんなスマホと友達じゃないですか。SNSで発信するのも、なんだかんだ言って気を使うし、かといって家族や恋人に全部をぶつけるのも、ちょっと違う。
「無生物の壁打ち」のススメ
そこで登場するのが、無生物ですよ。彼らは、決してあなたをジャッジしない。秘密を漏らすこともない。そして、どんなにくだらない話でも、どんなにネガティブな感情でも、ただひたすら受け止めてくれる。これって、究極の「壁打ち」じゃないですか。
私が見かけるおじさんや、取材した中村さんの場合は、それが看板だったり、ガードレールだったりしたわけですけど、別に何でもいいと思うんですよ。通勤中に毎日見る電柱でもいいし、会社の自分のデスクの観葉植物でもいい。なんなら、毎日お世話になってるマグカップにだって、今日あったこと、一日の終わりに「今日もよく頑張ったな」って話しかけてみる。それだけで、案外、心のつっかえが取れることって、あるんじゃないか、と。
人間って、言葉に出すことで、自分の感情を客観視したり、整理したりできる生き物なんです。相手が人間でなくても、その効能は変わらない。むしろ、無生物相手だからこそ、何のしがらみもなく、ありのままの自分をぶつけられる。これ以上のカウンセリングって、そうそうないですよ。しかも無料。
だから、もしあなたが、ちょっと疲れてるな、なんかモヤモヤするな、でも誰にも言いたくないな、って思ってるなら、一度、あなたの通勤路や、あなたの日常の中にある「無言のオブジェ」に目を向けてみてはいかがでしょうか。そこには、案外、あなたの心の健康をそっと支えてくれる、秘密の癒しが隠れているかもしれません。
通勤中のおじさんの行動を見た時、私、最初は笑ってたんですよ。でも今は、あの毎朝の会話劇が、なんだか愛おしいんです。今日もおじさんは、あの看板に、何を語りかけるんだろう。そして、私も、今日一日、何をどこに「壁打ち」しようかな、なんて、ちょっとだけ、そんなことを考えるようになったりして。ええ、これが私の、ささやかな日常の変化、ってやつですね。
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