隣の席の「謎のこだわり」、それは月300円の「沼」だった話
皆さんの職場にも、いませんか?
別に派手なわけじゃない。むしろ地味。でも、なぜかその人のデスク周りだけ、妙にピンポイントで「いいもの」が置いてある人。私なんか、もう10年以上使い続けてる会社の備品ボールペンで事足りてますけどね。いや、事足りてるっていうか、もう「このボールペン以外使えない体」になってるだけかもしれないですけど。
先日、そんな私の隣の席の彼が、いつもの何でもない書類にサインをするのに、妙に丁寧な手つきでキャップを開けたペンを使っていたんですよ。なんというか、普段使ってるボールペンとは明らかにインクの色味が違う。深みのある、でも派手すぎない。ええ、色に深みって何だよって話ですけど、見た瞬間「あ、これ、普通の黒じゃないな」って分かるんです。
で、休憩中に何気なく聞いてみたんです。「そのペン、なんかインクの色が素敵ですね」って。そしたら彼、ちょっと照れくさそうに「ああ、これ、今月新しく買った万年筆のインクで……限定色なんですよ。小さい瓶なんですけど、たったの月300円くらいで、ちょっと贅沢な気分になれるんです」って。月300円。コンビニコーヒー1杯分にも満たない金額で、そんな高揚感を得られるとは。
私としては「なぜ、その一点にだけ、そこまで投資を…?」と純粋な疑問が頭をよぎったわけですが、彼が口にした「沼」という言葉を聞いて、全てが繋がった気がしました。
【専門用語解説】沼(ぬま)とは
ここでいう「沼」とは、特定の趣味や収集癖に深くのめり込み、一度足を踏み入れると抜け出すのが困難になる状態を指す俗語ですね。決して、会社の裏にある工事現場のぬかるんだ地面のことではありません。元々はアイドルやアニメ、ゲームなど熱狂的なファンがいるジャンルで使われることが多かったのですが、近年では文房具、コーヒー豆、観葉植物、あるいはサウナなど、生活に密着した様々な分野で「沼にハマる」「沼落ちする」といった形で使われています。一度その魅力に気づいてしまうと、時間や金銭を惜しまず投入し、さらに深くその世界に沈んでいく。まるで底なし沼に足を取られたかのような、抗いがたい引力を伴う現象、ということですね。
なぜ、その「食卓の脇役」にだけ、人は執着するのか
隣の席の彼が万年筆のインクに「沼」ってる話、しましたよね。月300円でご満悦。私からしたら、そんな細かいことでテンション上がるの、なんかちょっと羨ましい気もするんですよ。人生、大体は「ああ、これいつかやらなきゃな…」みたいな、義務感で回ってる気がしますからね。でも、世の中にはもっと斜め上を行く「月300円の沼」に浸かっている人もいるもので。
先日、取材で知り合った田中さん(仮名。よくある名前なので、どこの田中さんか特定しようとしないでくださいね。ていうか、知ったところでどうするんですか)も、そんな「一点豪華主義」の申し子のような方でした。彼女の職場は、社員食堂もあるし、近くにコンビニもスーパーもある、ランチには困らない環境。大体の人が「今日はコンビニのおにぎりでいいか」とか、「とりあえず社食でA定食を」とか、そんな感じで済ませるらしいんです。私だってそうですからね。昼飯なんて、胃袋を黙らせるための儀式みたいなもんですから。
まさかの「ご当地塩」に人生を捧ぐOLの情熱
田中さんの「沼」は、まさかの「塩」でした。ええ、あの塩。食卓に必ずある、白い粒のやつです。最初は私も耳を疑いましたよ。「まさか、ポテトチップスにこだわりがあるとかじゃなくて、純粋に塩ですか?」って。そしたら田中さん、ちょっと得意げにこう語ってくれたんです。
「昔は私も、ただの『塩』って思ってたんです。スーパーで100円くらいで買えるし、だいたいどれも一緒だろうって。でも、ある時、旅行先で買った『ご当地の岩塩』を家で使ってみたら、いつもの卵焼きが全然違う味になったんですよ。なんていうか、卵の甘みが引き立って、奥行きが…」
奥行き、ですか。塩に。ていうか、卵焼きの甘みって。普段から砂糖と醤油でガッツリ味付けして、焦げ目がついた方が美味しいって思ってる私みたいな人間には、なかなかピンとこない話です。
でも、そこから田中さんの「塩沼」は急速に深まっていったらしいんです。今では、会社のデスクの引き出しに、常時3種類以上の「小瓶に入ったご当地塩」がストックされているんだとか。
「コンビニでサラダチキンを買ってきても、この『〇〇島の藻塩』をちょっとかけるだけで、一気に『今日の私、ちゃんとしてる』って気持ちになれるんです。あと、お味噌汁をインスタントで済ませる日も、この『ヒマラヤのピンク岩塩』をほんの少し加えるだけで、風味が増して、なんかこう…旅情を感じるというか。ええ、完全に自己満足なんですけど」
彼女はそう言って、恥ずかしそうに笑っていました。私からしたら、コンビニのサラダチキンは「サラダチキン」以外の何者でもないし、インスタント味噌汁に至っては「お湯を入れるだけ」という手軽さに全振りしてるんですけどね。そこに旅情を見出すとは、もう一種の才能ですよ。
月300円という「抗えない誘惑」
田中さんがこの「塩沼」にハマる決め手となったのが、まさにその「月300円」という金額だったそうです。
「最初は、ちょっと高いかな?って思ったんですよ。普通の塩の何倍もしますから。でも、小瓶だったら数百円で買えちゃうし、毎日使うものじゃないから、意外と長持ちするんです。新しい種類を試しても、月に1本とか2本とか、せいぜい数百円。これで、毎日のランチや夕食がちょっとだけ楽しくなるなら、むしろコスパが良いんじゃないかって」
コスパ、ですか。確かに。月300円で、毎日がちょっとだけ楽しくなるなら、安いのかもしれない。でも、その300円で「旅情」とか「ちゃんとしてる感」とか、そんな概念的なものを買えるとは。
「それこそ、この前買ったフランス産の『トリュフ塩』なんて、小さじ半分で、冷凍のパスタが高級レストランの一皿みたいになるんです。もちろん、見た目は冷凍パスタのままなんですけど、なんかこう…香りで脳が騙されるというか。ええ、騙されてるんですけど」
彼女は「騙されてるんですけど」と付け加えるあたり、非常に冷静かつ客観的に自分の「沼」を分析しているようでした。
私だったら、騙されるくらいなら、最初から高級レストランに行きますけどね。ていうか、行く金あったら騙されてないですけど。
しかし、冷静に考えると、この「月300円」という金額設定が実に巧妙なんですよ。高すぎず、かといって安すぎない。衝動買いするには少し躊躇するけど、一度試してしまえば「まあ、これくらいなら」と自分を納得させられる絶妙なライン。そして、一度その「プチ贅沢」の味を覚えてしまうと、もう後戻りできない。
まさに、「沼」ですよ。そこに注がれるのは、たった300円の小銭と、とめどない「食卓への探求心」。いや、探求心なのか?ただの食い意地なのか?私には判断できませんけどね。
結局、人は「何」に価値を見出しているのか?
隣の席の彼の万年筆インクと、田中さんのご当地塩。どちらも、パッと見は地味というか、地味中の地味ですよ。会社の備品で事足りるし、塩なんてどれも一緒でしょ、みたいな。でも、そこに彼らなりの「月300円の投資」がある。そして、そこから得られるのは、私たちには計り知れない「満足感」や「高揚感」、あるいは「ちゃんとしてる私」という自己肯定感。
正直な話、私なんか、ランチ代を削ってまでこだわるなら、もうちょっとこう…分かりやすく「贅沢」に見えるものに投資したいですけどね。例えば、ちょっといいブランドのペンとか、有名店のランチとか。いや、それも結局自己満足って話なんですけどね。でも、「あ、あれ良いね」って言われたいじゃないですか。誰もが認める贅沢をしたい、みたいな。
「月300円の沼」が教えてくれること
ところが、彼らの「沼」は、基本的に自己完結型なんですよ。
万年筆のインクなんて、ほとんど自分しか気づかない。ご当地塩だって、一人で食べるインスタント味噌汁に入れるものに、誰が気付くって話です。そこにこそ、彼らが本当に価値を見出しているものがある気がするんです。誰かに見せるためじゃなく、自分自身の日常を、ほんの少しだけ特別なものにするための「投資」。
私たちが日々の生活で感じる「ああ、なんか今日もうまくいかないな」「マンネリだなぁ」みたいなモヤモヤって、結構ありますよね。特に何をするわけでもなく、ただ時間が過ぎていく、みたいな。そんなときに、この「月300円の沼」ってやつは、とてつもない効力を発揮するんじゃないか、と。
毎日使うボールペンを、ちょっとだけ書き心地の良いものに変える。
いつものコーヒーに、ほんの少しだけ香りの良いシナモンパウダーを振る。
デスクの片隅に、手のひらサイズの小さな観葉植物を置く。
それらは、誰かに見せびらかすものではない。でも、その小さな変化が、私たちの脳に「お、なんかちょっといいじゃん、今日」という信号を送る。それだけで、一日が、いや、人生が、ほんの少しだけ彩り豊かになるのかもしれない。月300円で。
あなただけの「月300円の沼」を見つけよう
これまで話してきたように、人は、必ずしも高価なものや派手なものにばかり価値を見出すわけではありません。むしろ、人知れず、ひっそりと、しかし熱烈に愛する「月300円の沼」に、日々の小さな喜びを見出している。
だから、結論ですよ。
皆さんも、探してみてはいかがでしょうか。
あなたの日常に、ほんの少しだけ、とっておきの彩りを添えてくれる「月300円の沼」を。
それ、案外、すぐそこにあるかもしれませんよ。
そして、その沼にハマってしまった暁には、ぜひ私に教えてください。
きっと、それが私にとっての、新たな沼の入り口になるはずですから。いや、なるのか?ならないのか?まあ、ならないかもしれないですけどね。でも、きっと誰かの「月300円の沼」の話は、聞いているだけでも、なんかちょっと楽しいですから。ええ、そういうもんです。
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