今日も変わらない、はずだった朝
毎日、毎朝、同じ電車に乗って、同じ道を歩く。目的はただ一つ、職場に辿り着くこと。それ以外の感情とか、五感で感じる情報とか、極論どうでもいいんですよね。だって、同じ景色、同じ人間、同じ匂い。刺激もへったくれもないわけです。スマホを眺めながら、心の中では「あー、今日も一日が始まっちゃうのか。終わるまであと何時間だろう」なんて、もうスタート地点で飽きちゃってる。そんな状態で会社に着けば、そりゃ「今日も無駄な一日だったな」って気分になるのも当然です。ええ、もう諦めてましたよ、私は。一日が終わるまで、完全に無気力モード。
日常飽和症候群とは?
この「毎日が同じことの繰り返しすぎて、脳が完全に思考停止し、五感のスイッチもオフになっている状態」を、私は勝手に「日常飽和症候群(にちじょうほうわしょうこうぐん)」と定義しています。ルーティンワークならぬ、ルーティンライフの弊害というか。何か新しい刺激を求める気力すら失せ、ただただ時間が過ぎるのを待つだけ。まさに、通勤中の私がこれでした。
通勤路に転がっていた「どうでもいいもの」
私が日常飽和症候群に侵され、毎日を半ば諦めながら歩いていたのは、別に特別なことではなかったんだと思います。むしろ、現代社会においては標準装備なんじゃないかと。でも、そんな状態でも、人間の目というのはたまに機能するもので。脳が「これは重要ではない」と判断してスルーしようとしている情報の中にも、何かしら引っかかるものって出てくるんですよね。まぁ、たいていは「あ、またあの看板か」「あの電柱の落書き、まだ消えてないな」みたいな、本当にどうでもいい話なんですけど。
ええ、そうなんです。私もそうでした。基本的に道端のものは「視界の邪魔」くらいの認識で、深く考えることもない。だから、ゴミが落ちていようが、なぜか片方だけの靴が転がっていようが、基本的には無反応。スルー。それが大人のマナーだと、勝手に思い込んでいましたから。
マナさん(仮名)が見つけた「捨てられたマフラー」
そんな私とよく似た感覚を持っていたのが、先日取材でお会いしたマナさん(仮名)です。彼女もまた、毎日の通勤に何の期待も持っていなかったそうです。「あの時間だけは、透明人間になった気分でいられる唯一の時間でしたね。誰にも話しかけられないし、誰の顔も見なくて済むし、ただひたすら無心で歩けるから」と、苦笑いしていました。
そんな彼女が、ある日、いつもの通勤路で、いつものようにスマホを眺めながら歩いていた時の話です。ちょうど駅前の広場を通り過ぎる時、街路樹の根元に、くしゃっと丸められたビニール袋が目に入ったそうなんですよ。
「最初は、ああ、また誰かの食べ残しか、タバコの吸い殻か、みたいな。いつもの光景だと思って、そのまま通り過ぎようとしたんです。だって、見ても何もないし、むしろ気分が悪くなるだけじゃないですか」
マナさんはそう語っていましたが、その日はなぜか、足が止まったと言います。理由は自分でもわからない。ただ、ビニール袋の隙間から、何かの「色」が見えた気がした、と。
「よく見たら、なんか青いモコモコしたものが覗いていて。まさか、生ゴミじゃないだろうと思って、思わず足が止まっちゃいました。で、よくよく見たら、それが、小さな手編みのマフラーだったんですよ。片側だけフリンジが取れてて、ちょっと毛玉もできてて。多分、子供用の、誰かが心を込めて編んだんだろうなっていう、そんな感じの」
そのマフラーは、明らかに誰かが丁寧に作ったものだとわかる風合いだったそうです。しかし、無造作に捨てられ、他のゴミと一緒に街路樹の根元に放置されている。「なんでだろう」と、マナさんはそこで初めて、通勤中に何かについて考えたと言います。誰かが落としたのか、それともわざと捨てたのか。捨てたのなら、なぜそんな大切なものを。落としたのなら、どうして見つからなかったのか。
「別に私がどうこうできる問題じゃないし、私が拾ったところでどうにもならないのは分かってるんです。でも、そのマフラーを見た瞬間、なぜか、なんていうか、胸が締め付けられるような、フワッとするような、よく分からない感情になったんですよね」
その日、マナさんは、いつもなら会社のドアを開けるまで頭の中を占めていた「今日の仕事めんどくさいな」とか「ランチ何にしよう」みたいなことを一切考えなかったそうです。代わりに、あの小さな青いマフラーのことばかり考えていた。誰かの持ち物だったであろう、あのマフラー。ゴミに紛れて、ひっそりとそこに横たわっていた「それ」が、なぜかマナさんの「日常飽和症候群」のスイッチを、一瞬だけオフにした。その瞬間から、彼女の通勤風景は、ほんの少しだけ、色を変え始めたと言います。ええ、もう、それは私自身の話かと錯覚するくらい、共感しかなかったですね。
「どうでもいいもの」が日常に差し込んだ光
マナさん(仮名)は、結局その青いマフラーを拾わなかったそうです。当然ですよね。道に落ちている他人の持ち物を拾って、どうしろと?警察に届ける?そんな手間をかけたら、また自分の「無気力な日常」が、余計なタスクで彩られてしまう。それはそれでストレスだ、と。私もまったく同じ考えです。しかし、彼女の視点は、その日から少しだけ変わったと言います。
「それまで、道端のものは全部『無視すべきもの』だったんです。余計な情報だし、見て損するだけだし、関わるだけ無駄。そう思ってました。でも、あのマフラーを見てから、なんか、ちょっとだけ、気にするようになったんですよね。ああ、今日はあそこにペットボトルが落ちてるな、とか。あの店の前に、新しいチラシが貼ってある、とか。本当にどうでもいいことばっかりですけど」
つまり、マナさんは、それまで「ゴミ」として一括りにしていたものの中から、個別の「情報」を認識し始めたわけです。それが、彼女の言う「フワッとした感情」に繋がったのかは分かりません。でも、確実に言えるのは、彼女の脳が「日常飽和症候群」という強制的な省エネモードから、少しだけ起動し始めた、ということでしょう。
そして、その話を聞いた私も、なんだか妙に納得してしまったんです。我々が「ゴミ」と呼ぶもの、あるいは「どうでもいいもの」として視界から排除しているものの中には、実はそうではないものが結構含まれているんじゃないか、と。それらは、誰かにとって意味のあるものだったり、単なる偶然の産物だったり、あるいは、何の変哲もないけれど、なぜか目を引く存在だったりする。私たちは、それを一律に「無駄」だとラベリングして、思考停止しているだけだったんじゃないか。
ゴミだと思ったアレが、なぜか私を救う時
私が「ゴミ」と間違えたアレ、マナさんの「捨てられたマフラー」。これらは、私たちの日常に、ほんの小さな「疑問符」を投げかけました。なぜここにあるのか?誰が置いていったのか?何を意味するのか?その疑問は、別に解決されなくてもいいんです。だって、本当に解決したら、それこそ面倒くさい。でも、その「なぜ?」という思考の芽生えこそが、毎日同じことの繰り返しで凝り固まった脳みそに、ちょっとした刺激を与えてくれる。それはまるで、長年使っていなかった筋肉を、ほんの少しだけ動かしてみるような感覚なんじゃないでしょうか。
無意識にスルーしていた情報の中に、一つだけ「これは何だろう?」と立ち止まれるものを見つける。その行為自体が、私たちの心に、ほんの少しだけ新しい風を吹き込んでくれるのかもしれません。私自身、マナさんの話を聞いてから、通勤中に目に入る「どうでもいいもの」に対する認識が、確実に変わりました。今日も、道端に落ちているコンビニのレジ袋を見て「あれ、どこから飛んできたんだろう」なんて、どうでもいいことを考えています。ええ、相変わらず無駄な一日ですけど、前よりはちょっとだけマシになった気がしますね。
まとめ:今日から「ゴミ」を見る目を少しだけ変えてみませんか?
結局、私が言いたいのは、特別なことなんて何一つない、ということです。日常飽和症候群の特効薬は、別に壮大な発見とか、人生を変えるような出会いとか、そんな大層なものではない。もしかしたら、通勤中に、あなたが無意識に「ゴミ」だと切り捨てていたものの中に、あなたの脳をほんの少しだけ活性化させる「何か」が隠されているのかもしれません。
それは、道端に落ちている石ころでもいい。工事現場の注意書きのフォントでもいい。空に浮かぶ雲の形でもいい。ただ、ほんの少しだけ、立ち止まって「なんだこれ?」と考えてみる。その「なんだこれ?」の積み重ねが、いつの間にか、あなたの「今日も無駄な一日」を、ほんの少しだけ「あれ?なんかちょっと面白いかも」という一日に変えてくれるかもしれません。
さあ、明日からの通勤路、あなたはどんな「ゴミ」と出会うでしょうか?
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