導入:現代のコンビニは、ちょっと『できすぎ』じゃないですか?
最近のコンビニって、もう完璧じゃないですか。レジはAIが勝手に客の顔認証して「いつもありがとうございます、〇〇様」とか言い出しそうだし、セルフレジなんて、もはや店員さんの職域を奪いに来てる。便利すぎて、逆にちょっと息苦しさすら感じるんですよ。隙がない。
でも、昭和のコンビニって、もうちょっと…なんて言うんでしょうか。有機的、というか。人間味、というか。良くも悪くも、システムより人間が優位だった時代なんですよね。だからこそ起こり得た、現代のコンビニでは絶対にありえないような、そんな「まさかの事態」が、レジで発生したわけですよ。しかも、そこに店員さんの「神対応」が絡む、と。なかなかストーリー性があるじゃないですか。
「昭和レジ周り『性善説』運用」とは?
ここで定義しておきたいのが「昭和レジ周り『性善説』運用」という概念です。これは、現代のように厳格なマニュアルや徹底したシステム管理に頼るのではなく、「お客様は良識ある方だ」「店員も状況に応じて柔軟に対応できる」という、ある種の性善説に基づいた運営がされていた、当時のコンビニにおけるレジ周りの状況を指します。具体的には、細かいルールよりも、その場での人間同士の信頼や判断が優先されがちだった、ということです。現代の目から見ると「え、それで大丈夫だったの?」と首を傾げたくなるような「余白」が、当時は当たり前のように存在していたわけですね。そして、その「余白」が、今回のような「まさかの事態」を引き起こす土壌になった、と。
まさかの事態:「メモって持ち帰り会計」が許されたコンビニ
さて、前章で「性善説運用」なんていう、いかにも胡散臭い専門用語を定義してみたわけですが、あれが具体的にどういう状況を生み出したか、という話ですよね。言葉だけじゃ、正直伝わらない。伝わらないものは、伝わらないんですよ。具体的なエピソードがあってこそ、人は「へぇ」となる。あるいは「はぁ?」となる。今回の場合、後者の「はぁ?」が結構強いんじゃないかと、私は踏んでいるわけです。
私が先日、取材した方の中に、当時コンビニでアルバイトをしていたという田中さん(仮名)がいらっしゃいまして。昭和の終わり頃、地方都市の、まだコンビニというより個人商店の延長みたいな話なんですが。これが、なかなか「え、それ、アリだったの?」としか言いようのないエピソードで。
「計算は家でやるから」という謎のミッション
ある日の夕方、田中さんがレジに入っていると、よく来る近所のおじいちゃん、鈴木さん(仮名)がいつものように買い物かごを持ってレジにやって来たそうです。商品は牛乳と、日刊のスポーツ新聞、あと缶コーヒー。まあ、ごく一般的な組み合わせですよね。田中さんは慣れた手つきで商品の値段をレジに打ち込んで、合計金額を伝えようとした、その時ですよ。
鈴木さんが、おもむろに胸ポケットから何やら取り出した。財布かな、と思いきや、出てきたのは手のひらサイズの「メモ帳」と、短くなった「鉛筆」だったそうです。で、それをレジ台に置きながら、田中さんにこう言ったんですよ。
「お兄さん、すまんが、この商品の名前と金額を、ここに全部書いてくれるか」
これ、どう思います? 普通、レシートで事足りますよね。しかも、当時はまだレジが普及し始めたばかりの時代で、印字も今ほどクリアじゃなかったりもしたんですが、それでもレシートは出るわけですよ。なのに、「手書きで書いてくれ」と。田中さんは一瞬、耳を疑ったらしいんですが、鈴木さんはニコニコしながら待っている。お客さんから言われたことなので、とりあえず従ったそうです。牛乳〇〇円、新聞〇〇円、コーヒー〇〇円、合計〇〇円と、丁寧にメモ帳に書き込んであげた、と。ここまでは、まあ、「ちょっと変わったお客さんだな」くらいの話で終わるんです。終わるはずなんですよ。
ところがですよ。メモを受け取った鈴木さんは、書き終わったばかりの鉛筆をメモ帳と一緒にポケットにしまい込み、なんと、購入した商品だけをヒョイっと持ち上げながら、こう言ったんです。
「ああ、ありがとう。じゃあ、これ持って帰るから、計算は家でやるわ。また明日、お金持ってくるから」
……え? となりません? 私は聞いているだけで「え?」となりましたよ。田中さん本人も、その場で完全に固まったそうです。「計算は家でやるから?」いや、計算はここで終わってるんですよ。合計金額もメモに書いてあるんですよ。そして、「また明日お金持ってくるから」って。つまり、その場で支払いをしない。そして、商品だけは持って帰る、と。これ、現代でやったら、完全に「窃盗未遂からの逃走」みたいな扱いになりますよね。万引きGメンが秒で飛んでくる案件ですよ。
田中さんが困惑して立ち尽くしていると、奥からベテランの女性店員さん、いわゆる「パートのおばちゃん」が出てきて、鈴木さんに満面の笑みでこう言ったそうです。
「あら、鈴木さん、いつもありがとうございます! また明日お待ちしてますねー!」
鈴木さんも「おう、また明日な!」なんて言いながら、何食わぬ顔で店を出て行ったそうです。
「ツケ払い」という名の信頼システム
田中さんは「え、あれ、大丈夫なんですか?」とパートのおばちゃんに恐る恐る聞いたらしいんですが、おばちゃんは「ああ、鈴木さんね。いつものことだから大丈夫よ。明日、ちゃんとお金持ってきてくれるから」と、どこ吹く風。そして実際、翌日、鈴木さんは昨日渡しそびれたメモを握りしめ、記載された金額ぴったりのお金を持って、再び来店し、ちゃんと支払いを済ませていったそうです。
これ、現代のコンビニで想像できますか? できませんよね。まず、レジで商品情報を手書きでメモに書くなんてオペレーション、ありえない。そして何より、商品だけ持って帰って「明日払う」なんて、許されるはずがない。防犯カメラに、POSシステムの履歴に、在庫管理。あらゆるものが「NO」を突きつけます。まさに「昭和レジ周り『性善説』運用」の極致ですよ。
このエピソードからわかるのは、当時のコンビニが、良くも悪くも、もっと地域に密着した「町のよろず屋さん」のような側面を持っていた、ということなんですよね。システムよりも、個人の信用や、人間関係が優先される。店員さんとお客さんの間に、一種の「ツケ払い」ならぬ「信用貸し」が成り立っていたわけです。もちろん、万が一踏み倒されたら損害が出るわけですが、それでも「まあ、あの人なら大丈夫だろう」という、根拠のない、でもなぜか確固たる信頼が、そこには存在していた。
現代の、全てがマニュアル化され、数値で管理される社会から見たら、ちょっと牧歌的すぎて、むしろ危険にすら見えるかもしれません。でも、この「危うさ」こそが、当時のコンビニの「人間らしさ」だったのかもしれないな、と、私はこのエピソードを聞いてしみじみ思ったわけです。
現代コンビニの『効率』と失われた『余白』
鈴木さんのおじいちゃんと田中さんのエピソード、いかがでしたでしょうか。私なんか、もう鳥肌立ちましたよ。「え、それがまかり通ってたの!?」って。現代のコンビニで同じことをやったら、たぶんものの数分で警察沙汰ですよ。万引き犯として指名手配、下手したらSNSで瞬時に拡散されて「あの人だ!」と特定され、ネットで炎上、挙げ句の果てには実家まで特定される、みたいな。そこまで行かないまでも、少なくとも店長が飛んできて、即座に支払いを要求されるか、商品の返却を求められるか、どちらかですよね。
なぜ現代では不可能か。それはもう、システムがそれを許さないんですよ。まず、レジのシステムが在庫を瞬時に管理していて、売れた商品と在庫の整合性が取れないとエラーが出る。防犯カメラは24時間監視体制で、不審な行動は全て記録されている。そして何より、チェーン展開するコンビニにとって、個々の店舗が勝手に「ツケ払い」を認めるなんて、全店舗の売上管理、会計処理に多大な混乱を招く。つまり、現代のコンビニは、完璧なまでに「効率」と「公平性」を追求した結果、あの「余白」を徹底的に排除したんですよ。
その結果、我々はどこでも均一で質の高いサービスを受けられるようになった。便利になった。それは間違いありません。素晴らしいことです。でも、その引き換えに、田中さんが体験したような、良くも悪くも「人間味あふれる」やり取りが消えた。システムが全てを管理し、人間はマニュアルに従うだけ。まるでロボットがレジを打っているような、そんな画一的な世界に突入したわけです。
我々が忘れてしまった『信頼』という名のレジ打ち
あのエピソードの根底にあったのは、結局のところ「信頼」だったと思うんです。店員と客、という関係性を超えた、地域コミュニティの中での「あの人なら大丈夫」という、ある種の根拠のない、でも確固たる信頼。鈴木さんのおじいちゃんが、きっと今までもそうやって、あるいはそれ以外の形で、店や店員との間で信頼関係を築いていたからこそ、パートのおばちゃんも「いつものことだから大丈夫よ」と、朗らかに送り出すことができた。
現代社会では、どうでしょう。「見知らぬ人」への信頼って、ものすごく希薄じゃないですか。何かあったら誰かのせいにしたがる。リスクを回避するために、あらゆるマニュアルやシステム、ルールで縛ろうとする。もちろん、それが社会秩序を保つ上で重要なのは理解できます。でも、その結果、我々は何かを失ってしまったんじゃないか、と。例えば、人との間に生まれる、ちょっとした温かさとか、融通の利く「心のゆとり」みたいなもの。
もし今、私がコンビニで「すいません、ちょっと今手持ちが…」なんて言ったら、レジの向こうの店員さんは、きっとマニュアル通りの対応をするでしょう。「では、恐れ入りますが、お持ちの品を一旦お戻しください」と。それは正しい対応ですよ。でも、あの昭和のパートのおばちゃんのような「また明日お待ちしてますねー!」という言葉が、もし聞けたら、それはきっと、お金では買えない何かが得られるんじゃないか、なんて、ちょっとセンチメンタルな気持ちにもなるわけです。
結び:現代にこそ必要な「ちょっとした余白」
もちろん、昭和の全てが良かったわけじゃないし、現代のコンビニの便利さは計り知れないものです。私たちはもう、あの時代には戻れないし、戻る必要もないのかもしれません。ただ、あの「昭和レジ周り『性善説』運用」が教えてくれるのは、効率やシステムだけが、人間関係の全てじゃない、ということ。
私たちは今、あまりにも多くのことを「システム任せ」にしすぎているんじゃないか。そうじゃないと成り立たないほど、信頼関係が希薄になっているんじゃないか。このスピード社会で、無駄を削ぎ落としてきた結果、我々の心の中に、人との関わりの中に、「余白」がなくなってしまっているんじゃないか。
だからこそ、私たちは、現代に生きる中で、意識的に「ちょっとした余白」を作り出す必要があるんじゃないでしょうか。それは、コンビニで「ツケ払い」をすることではありません。そんなことをしたら、それこそシステムが怒ります。そうではなく、目の前の相手を、一人の人間として、マニュアルやルールでがんじがらめにするのではなく、ほんの少しだけ「性善説」で見てみる。ほんの少しだけ、相手の言葉に耳を傾けてみる。ほんの少しだけ、見返りを求めずに「親切」を差し出してみる。
そんな「ちょっとした余白」が、この殺伐とした現代社会を、ほんの少しだけ、鈴木さんのおじいちゃんが安心して缶コーヒーを持ち帰った、あの頃のコンビニのように、温かく、そして人間らしい場所に変えてくれるんじゃないか。そう、私は思うわけです。
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